大坂(大阪)画壇について

日本の絵画の中心地は江戸(東京)と京都ですが、大阪にも画壇があり、近年その評価が進んでいます。ここでは大坂画壇または大阪画壇と呼ばれるその画壇の特徴を解説します。

大坂画壇と大阪画壇

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大阪は天下の台所と称され、難波宮のあった古代より日本の中心地のひとつでしたが、経済的に特に日本の中心と言えた時代は、幕藩体制における米の集積地の地位が確立した江戸時代、そして近代産業が発展し、近代的な商工業の集積した明治から大正にかけての近代と言えます。
絵画の発展は、それを買い支えたり支援したりする市民層の経済的な余裕が大切になります。そのため、特に大阪が経済的に発展していた江戸時代の大阪の画壇のことを、近年では江戸や京とは区別して大坂画壇というようになりました。同じように近代産業が特に発展していた時代の大阪の画壇を大阪画壇として注目されるようになりました。
江戸時代までは大阪は「大坂」と呼ばれており、「坂」の字を使っていました。明治以降は坂の字が嫌われ、現在の大「阪」と書かれるようになりました。そのため近世である江戸時代の絵画を指す場合は「大坂画壇」と表記され、近代の大阪の絵画を指す場合は「大阪画壇」と表記されています。

近世大坂画壇について

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江戸時代に、江戸や京と並んで三大都市として栄えた大坂の街は、町人に支えられた街でした。町人たちは経済面だけではなく文化面においても主な支持基盤となりました。そのような大坂に生まれたり集ったりして、大坂を舞台として活躍した絵師たちを称して大坂画壇と呼びます。
その画風は狩野派から戯画まで幅広く、個性に満ちています。京が近いために京都画壇の影響を受けていますが、武家社会のアカデミックさは薄く、町人社会の支持による自由な発想があったように見受けられます。

大岡春卜(おおおか しゅんぼく)

大坂出身。江戸時代中期の大坂で活躍した狩野派の絵師で、近世大坂画壇初期を代表する絵師です。大胆な構図と個性豊かな筆致で高い評価を得ました。
多くの門人を育て大岡派の祖となりました。同じ大坂の絵師の橘守国と絵手本や画論を競うように刊行しました。幼少期の木村蒹葭堂に絵を教え、伊藤若冲は春卜の弟子だったとも言われます。

橘守国(たちばな もりくに)

大坂出身。江戸時代中期に大岡春卜などとともに活躍した狩野派の町絵師で、大田南畝著の『浮世絵類考』に項目が立てられています。生涯に約二十種の絵手本などを手掛けていますが、現存する肉筆画は希少です。

木村蒹葭堂(きむら けんかどう)

江戸時代中期の文人画家・商人・コレクター。絵画だけではなく、本草学・文学・黄檗禅・オランダ語・ラテン語などに通じ、書画・骨董・書籍・地図・鉱物標本・動植物標本などの大コレクターとしても知られています。その膨大な蔵書は、没後昌平坂学問所に収められ、現在では内閣文庫に引き継がれています。

耳鳥斎(にちょうさい)

江戸時代の大坂の浮世絵師で戯画作者です。
個性的な戯画で知られており、その独創的な発想は宮武外骨や岡本一平などの後世の狂画に影響を与えました。
「世界は此れ即ち一つの大戯場」だと耳鳥斎は語っていたと言われており、印章を「非僧非俗以酒為名」とするなど、堅苦しい世間を笑い飛ばす耳鳥斎の姿勢がみられます。

葛蛇玉(かつ じゃぎょく)

上田秋成の雨月物語にある「夢応の鯉魚」のモデルと言われています。現存する作品は極めて少ないです。

長山孔寅(ながやま こういん)

四条派の画家。出羽国秋田出身で二十代前半に上京。享和元年(1801年)から文化3年(1806年)の間に来阪し、以後大坂を中心に活躍します。
狂歌師としても知られ、大坂で出版された狂歌本に数多く挿絵を寄せています。

西山芳園(にしやま ほうえん)

江戸時代末期の絵師。四条派の流れをくみ、大坂に四条派の写生を広めました。清和温順・幽雅軽淡な筆致で人気を集め、最も大坂らしい画家と評されます。

中村芳中(なかむら ほうちゅう)

江戸後期に京で生まれ、大坂を中心に活躍した琳派絵師。近年その独特な表現が「かわいい」と評され、近世大坂画壇に独特な存在感をもっています。木村蒹葭堂と交流がありました。

金子雪操(かねこせっそう)

江戸後期の大坂画壇の文人画家。江戸生まれ。京都で書を学んだ後、天保8年に吹田村を訪れ滞在しました。吹田市内の寺社旧家には数多くの雪操の作品が残されています。文人画をベースに様々な技法を駆使して描く画風です。

岡田米山人(おかだ べいさんじん)

江戸時代後期の大坂を代表する文人画家で、木村蒹葭堂とともに大坂文人画の重鎮とされています。
家業の傍ら書画を学び、明清元代の中国文人画を手本としました。

岡田半江(おかた はんこう)

大坂出身。江戸時代後期の文人画家で岡田米山人の子。父の岡田米山人の39歳のときの初子でした。
幼い時から父に習って画作を続け、居宅に出入する多くの文人墨客と交わりました。
大塩平八郎の乱で半江の別宅が焼失し、父の米山人から相続し、自分でも収集した典籍・書画・骨董器物などが消失。このことから住吉浜に移住しました。

森狙仙(もり そせん)

狩野派の影響を受けながらも、独自の画風として動物画、特に猿の絵を多く描きました。その毛並みの独特の表現は印象的です。

近代大阪画壇について

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明治に入ると都は東京に移り、大阪経済は下降しはじめます。しかしもともと流通経済の中心であった大阪は、紡績や機械製造や造船などの工業化が進み、新産業の中心地となっていきます。大正後期から明治初頭にかけて、第二次市域拡張により、大阪市は日本最大の人口となりました。この頃の大阪は東洋一の商工都市であり、文化や芸術が花開き、活気に溢れた時代でした。近代モダン建築や橋梁などの建造物が多く作られた中之島や北浜や船場の一帯は、近代大阪の象徴的な空間であると言えます。このような活発な都市活動を背景に、明治後期より大阪画壇と呼ばれる画壇が発展していきました。
特に女性画家も活躍が顕著であったことは、東京や京都の画壇と比べて、近代大阪らしい特徴であると言えるでしょう。

菅楯彦(すが たてひこ)

日本画家。明治11年に日本画家菅盛南の長男として鳥取に生まれました。
独学で四条派、狩野派、土佐派、浮世絵などを模写・研究し、独自のスタイルを確立しました。浪速の風俗を愛し「最も大阪らしい画家」と呼ばれました。晩年には日本画家としては初めての日本芸術院賞と恩賜賞を受賞し、昭和37年には初の大阪名誉市民に選ばれました。

北野恒富(きたの つねとみ)

金沢生まれ。明治から昭和前期にかけて活躍しました。金色夜叉の小説挿絵でデビュー。その後日本画家として名前を知られるようになり、妖艶で退廃的な雰囲気が特徴の美人画が人気を博しました。
恒富は東京の鏑木清方、京都の上村松園などと並んで大阪の「美人画家」と呼ばれました。
後期の作品は簡潔で優美なモダンなものとなりました。

木谷千種(きたに ちぐさ)

大正時代から昭和時代の日本画家。
明治28年に唐物雑貨商を営む吉岡政二郎の娘として大阪に生まれ、12歳の時に渡米し2年間シアトルで洋画を学んでいます。明治42年に帰国、吉岡千種の名前で文展に入選しました。
叔父の吉岡重三郎は小林一三とともに宝塚少女歌劇団の創立や阪急電鉄の発展に寄与した人物で、この叔父の家に寄寓するなどして当時の大阪のモダンな環境を体現しています。

大阪画壇の作品の買取り

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近世大坂画壇も近代大阪画壇も、大阪の町人文化・市民文化に根ざしたものであり、その作品は様々なものがあります。当時から著名だった作家から、近年まで評価がされていなかった作家もあり、その作品や市場価格は幅広いといえます。そのため、大阪画壇の作品の買取業者を選ぶには、取り扱い点数が多くて知識が豊富な業者を選ぶのが良いでしょう。